「セカチュー」に見る「想い」とは?(3)
あまり「ピュア」の度が過ぎるとロマンティシズムに押し流されて薄っぺらになりがちなものですが、「セカチュー」の場合、主人公の祖父の存在がかろうじてそうした傾向を食い止めているような気がしています。
朔太郎の名付け親でもある祖父は、農地改革によって没落した「かなり大きな地主」の跡取り息子でしたが、やがて「東京に出て実業界に身を投じ」、「敗戦後の混乱に乗じて金を作り」、「30歳そこそこで食品加工会社を起こした」のに、「せっかく大きくした会社をあっ さり部下に譲り、自分は選挙に出て議員になった」という変わり者で、「やくざな商売に手を染めていたしな。刑務所に入ったこともあるしな。」と自らが語っているように「人を殺したことはないが、それ以外ならほとんどのことはやった」という「ピュア」という概念からは程遠い人物として描かれています。
その彼がかつて愛した女性の遺骨を盗みたいと言い出すのです。
片山恭一の作品がかもし出す「ピュア」さはここにこそあるのではないでしょうか?
つぼみになりきらないうちに果ててしまった命も、愛する人とは結ばれず年老いて灰になってしまった命も、時間軸を除けばその「想い」は同じはずです。
本当に「ピュア」であったものなら灰になっても「ピュア」なままではないでしょうか?
「いまここにないものは、死んでからもやっぱりないと思うの。いまここにあるものだけが、死んでからもありつづけるんだと思うわ」というアキの言葉が思い出されます。
残念ながらこの「想い」は目に見えません。手で触れることも、デジカメで撮ることもできないのです。でも、目を閉じて心を澄ませば、「想い」は必ず見えてきますし、聴こえてきます。
詩人や作家は文字として、音楽家は楽譜として、画家は絵具に乗せて何とか「想い」をつづろうとします。
その「想い」は活字を通して、音楽を通して、カンバスを通して私たちの心の琴線を振るわせる。それが「感動」になるのです。「ピュア」だから感動するわけではないのです。
それぞれが心の奥に秘めた「想い」が共鳴するから「感動」が生まれるのです。
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